桂浜水族館
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飼育員の日記帳
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お知らせ M(もったいない)おやじより  / 更新日: 2013年12月06日(金)
 この度、桂浜水族館のホームページが改良されることになりました(近日中)。それにともない“飼育員の日記帳”は消滅します。

エコおやじの履歴書http://moyajikaturahama.blog.fc2.com/ 
のコーナーでもうしばらく続く予定です。お手数をおかけしますが引き続きご愛読くださいますようお願い申し上げます。

           


333 桂浜への道Dカッケ? 〜M(もったいない)おやじ〜  / 更新日: 2013年11月23日(土)
 中学2年の夏、私のその後の人生を大きく変えたかも知れない事件(事故)があった。当時鳴門市にあった水族館に、市内で唯一のプールがあり、試合前などはそこを借りて練習をしていた。その時みんなで潜水競争をすることになり、私は非常に頑張って50mを潜り切った。ところが頑張り過ぎたせいで、後頭部をハンマーで殴られたような痛みで、その場に倒れてしまった。家に帰っても痛みが引かず、翌日近所の医者に診てもらった。問診・聴診のあと、膝関節の脊髄反射がないことに気付き「これはカッケだろう」とビタミン剤を処方してくれた。私は野菜嫌いだったので、母はこの診断に納得したようだった。痛みは数日で引いていったが、この中2の夏以後成績が段々下りはじめたのである。それまでは別段の努力をしなくても、ある程度の成績を残せたのに、中3では努力しても、思うような成績は得られなくなった気がする。あの時の頭痛は、酸素不足によって、脳の海馬細胞が大量に死滅したのだと思えてならない。もしあの時潜水ゲームに参加していなかったら、私は小学生の頃からぼんやりあこがれていた、祖父の仕事(医師)をめざし、今とは全く別な人生を送っていたかもしれないと思うこともあるのである。


332 桂浜への道C水泳部 〜M(もったいない)おやじ〜  / 更新日: 2013年11月16日(土)
 中学では卓球部だった2人の兄とはちがい、水泳部に入部(279恩人M山田耕三先生)した(これも私のDNAが仕込んだ結果とも思える)。当時の中学にはプールなどはありえなかった。水泳部の練習場は“ニオ”と呼ばれる水路だった。学校では危険を考慮して、ニオを遊泳禁止場所に指定していたが、“水泳部はこの限りにあらず”との勝手なルール(先生との暗黙の了解)を作り、おもに流れの速いニオの水門(写真)まわりで練習した。そこは魚も集まる所なので、釣竿だけでなく水中銛も用意して、遊びまわったものである。運動神経が鈍く、カケッコではいつもビリだった私だが、平泳ぎだけは他の水泳部員にも負けなかった。素潜りで、銛を持ってチヌ(キビレ)やタカノハダイを追ふことも、平泳ぎの練習になったのはまちがいない。私の人生は、海と魚から離れられないことを予感するような、楽しい水泳部だったように記憶している。


331 桂浜への道B桂浜との出合い 〜M(もったいない)おやじ〜  / 更新日: 2013年11月09日(土)
 徳島県生まれの私が、初めて高知県と出合ふのは小学校の修学旅行。そのころの鳴門市の小学校は、すべて高知観光だった。今でも定番の、龍河洞・高知城・桂浜と回った。当時はまだ戦後の食糧難の時代で、お米は配給だったので、宿泊先の井川旅館で各自が持って来た米を順番に並んで米びつへ入れた記憶がはっきり残っている。桂浜では旧水族館の海亀プールの亀の手をつかんで引っぱった。お返しにバシャッと水シブキをかけられ、私の周りにいた者までビショビショになり、あいにくの雨の中、みんなにブツブツ云われながら、バスに乗り込んだ記憶がある。この時のアカウミガメが13年後に私を迎えてくれることになるのである。今思えばDNAはそのことを示唆していたのだろうが、当時の私にはその『運命』の気配さを感じることは出来なかったようである。


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